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徳川家康

応仁の乱から長く続いた戦国時代を統一し、日本に200年にわたる武家社会を築いた徳川家康の五月人形が人気です。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」という狂歌は天下統一を餅つきに例えたものです。
ですが、ここに例えらえたように「すわりしまま」では決してなく、艱難辛苦の道のりを乗り越えて、
その忍耐と決断力の末に天下をつかんだというところが、徳川家康の人気の元です。

徳川家康 本革鎧

着用鎧 徳川家康

白い徳川家康

着用徳川家康金

着用兜 羅王

着用収納 徳川家康金

鞆美 徳川家康

着用収納の徳川羅王

立体 徳川家康白金

徳川家康一の谷の兜

コンパクト.立体12号徳川家康白金

コンパクト.徳川家康

徳川家康が生まれたとき、すでに生国の三河は今川義元の傘下にありました。
今川家に人質として家康が向かったとき、わずかに6歳。
しかも、今川に送られるときに人質を横取りされるという事件が起き、今川家に送られるはずだった徳川家康は織田家に送られることになりました。

のちに人質交換が行われ、今川家の人質となってまた駿府(現在の静岡県)に送られます。
その人質生活のさなかに、徳川家康は同年代の家臣とともに文武の研鑽に励みました。

徳川家康を人質に取られたままの三河の家来たちは、今川家が行う合戦のたびに先陣を切らされ、捨て石のように扱われました。
ですが彼らは、いつか立派になった徳川家康が帰ってくることを信じて辛抱しきったといいます。
徳川家康が三河に帰ることができたのは、人質になってから12年後、家康18歳の時だったと伝えられています。

それから40年後に、関ヶ原の戦い、大阪夏の陣・冬の陣を超えて徳川家康は天下を手にします。
その間には、後ろ盾となってくれていた織田信長の急死、そのあとの豊臣政権では三河を離れさせられ、江戸に封じられた形となりました。
数々の不遇な時代を超え、天下を統一した徳川家康は、決して「すわりしままに」ではなかったのです。

徳川家康は合戦のたびに兜を変えることがあったといいます。
五月人形の多くは羊歯葉をモチーフにした前立てのもので、これは天下分け目となった関ヶ原の時に使用したと伝えられます。
すらりとした大釘の後立があるものを「一の谷」と言いますが、これは現在東京国立博物館に所蔵されているものです。
釘はどんなものでも打ち抜くものであるところから、どんな戦況でも打ち抜く(=勝つ)ことができるようにという祈りが込められた兜です。

人生には順風満帆なことばかりではありません。
お子さんの人生に辛抱しなければならないことやつらいことが起きたとき、徳川家康のように仲間に助けられながら耐え忍び、
そしていずれ満開の花を咲かせることができるように…そのような思いで徳川家康の五月人形をお求めになる方が非常に多いです。

戦乱続きの社会を終幕させ、戦いのない平和な世の中を築きたいという家康の思いは、武家社会が終焉した現代まで続いているといっても過言ではないでしょう。
戦国武将の兜は意味を知って選びたいものです。
お子さんに送る生涯のプレゼントとして、徳川家康の兜はのちにお子さんが歴史を学び、自分に贈られた兜が徳川家康のものだと知った時に初めて意味が分かるものだと思います。

未来へ向けてのタイムカプセルのような五月人形と出会っていただけることを祈っております。


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